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昨日は、仕事で横浜へ行き、久しぶりに「みなとみらい」周辺の夜景を見て、日本で一番人気の夜景スポットと言われるだけのことはあるな、と、光のショーのスケールの大きさに圧倒されました。
ニューオータニの傍を歩いていると、暗がりに、「ゴーッ!」というゴーストのような大きな低い声が響いてきたので、ゾクッとしました。耳を澄ますと、どうやら、近くの映画館の宣伝で、「バイオハザード」の音声が外に流れているようでした。
暗闇と、イルミネーションと、冷たい海風と、神秘的な声が合わさって、あのあたり一帯が、巨大なエンターテインメントとなっていたので、粋な演出に思わず拍手を送りたくなりました。
私のこのエンタメ好きの原点は、宝塚にあると思っています。初めて宝塚を観たのは、まだ小学生の頃で、広島の地方公演で小規模なものだったのですが、それでも、きらびやかなステージに心を奪われたのを覚えています。
二歳年上の姉も同じだったようで、・・・いいえ、彼女は私よりも感受性が豊かなので、衝撃度も高かったらしく、その後、宝塚にすっかりはまり、「宝塚歌劇」や「宝塚グラフ」などといったマニアックな本を読みふけるようになりました。宝塚のレコードも擦り切れるまで聴き、数年後には、めぼしいスターはおろか、あまり注目されていない歌劇団の若手の生徒さんたちのことまでなんでも知っているという、ちょっとした宝塚博士になっていました。人をそれほど魅了するパワーが、宝塚にはあるのですね。
そんな姉が、最も気に入っていつも聴いていたレコードが、「ベルサイユのばら」でした。しかも、単なる歌曲集ではなく、誕生日に念願かなって買ってもらった二枚組の舞台収録のレコードでしたので、傍で聴いていた私まで、「ベルばら」の全曲の歌詞や、オスカルやマリー・アントワネットやフェルゼンのセリフまで、全て暗記してしまうといった奇妙なことになってしまいました。
♪ 青きドナウの岸辺に・・・セーヌの岸辺に咲く・・・ ♪
マリー・アントワネットは、まだ14歳の時に、当時のフランス皇太子(後のルイ16世)に嫁ぐことになり、オーストリアのウィーンからフランスのパリへ移り住みました。
先日、六本木へ行ったとき、森アーツセンターギャラリーで「マリー・アントワネット展」が開催されていましたが、アントワネットの人気は、やはり大きいですね。
今回、小説を書きながら、姉が聴いていた「ベルばら」のレコードのことをよく思い出しました。懐かしい曲を口ずさみながら、歌詞を噛みしめることも少なくありませんでした。
理由は、小説に登場する、皇帝ヨーゼフ二世と、その跡を継いだ新皇帝レオポルト二世が、ともにマリー・アントワネットの実兄だったことです。二人とも、モーツァルトと深くかかわりを持った皇帝たちです。フランス革命が起こった際(1789年)、モーツァルトもきっと、幼い頃にシェーンブルン宮殿で出会ったアントワネットの身を、皇帝たちと同様に切に案じたことと思います。
もし、モーツァルトが二十代の頃、パリ就職旅行の際に打診された、ベルサイユ宮殿でのオルガニストの職を引き受けていたら、彼もフランス革命の激しい渦に巻き込まれていたことはまちがいなかったでしょう。ただ、革命の火の粉はすでに、表では見えない形でウィーンへも飛び火していました。
モーツァルトをはじめとする有志たちの勇気ある一連の決死的行動がなければ、1790年代の早い時期に、オーストリア=ハプスブルク帝国もきっと、フランス革命が至ったような、血で血を洗う凄惨な恐怖政治や(マリー・アントワネットと夫の国王ルイ16世はギロチンで公開処刑されています)、それに伴う大きな社会的混乱の波に呑みこま込まれていたことだろうと思います。(詳しいことは、また日を改めてお話いたします)
そういう意味では、モーツァルトの「魔笛」というオペラが当時リアルタイムで担った役割は、とても大きいものがありました。
そのモーツァルトも、「魔笛」完成のわずか2ヵ月後、35歳の若さで謎の死を遂げることになるのですが。。。
マイケル・ジャクソンも言っていましたが、いつの時代も、エンターテインメントが人々に与える喜びと希望は、はかりしれない価値があると感じます。
マリー・アントワネット(1755~1793)
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